カテゴリー「キリスト教・教会」の9件の記事

2007.07.20

Fest der weltweiten Kirche (世界教会祭)in Neuendettelsau

7月15日にここNeuendettelsauで行われた、毎年恒例のFest der weltweiten Kirche(世界教会祭)の写真をアルバムにアップしました。
右の「マイフォト」のリンクからご覧下さい。
なぜだかピンぼけしまくりで、あんまり良い写真ではないのですが・・・

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2007.06.12

31.DEKT in Koeln 2007

リンク: 31.DEKT in Koeln 2007.

6/6-10、ケルンで行われた第31回ドイツ・プロテスタント・キルヘンターク(31. Deutscher Evangelischer Kirchentag)に、アウグスタナ神学校からのツアーで参加してきました。

6/6の朝8時に神学校に集合、他の面々と大型観光バスで出発。

途中2回の休憩を挟みつつ、14時頃ケルン郊外の逗留先Bocklemuendeという町に到着。

他の学生のメンバーは原則このBocklemuendeの町のGesamtschuleの教室に寝袋で雑魚寝なのだが(Kirchentagというとそういうものらしい)、うちは子連れなので事前に特別に民泊(Privatquartier)を手配してもらう
そういうわけでBocklemuendeのさらに隣の街のWiedersdorfという小さな町の教会員の方のお宅に逗留することに。

民泊先のお宅は、ものすごく親切な方で、初日も最終日も結局バスの発着地からお宅まで送迎してもらってしまいました。また、このお宅はちょうど我が家と同じぐらいの年代の子どもが2人いるご家庭だったので、子ども達も仲良くなることもでき、これまた貴重な体験となりました。

ところで、今回の詳細はアルバム(「マイフォト」)としてアップしました。
ご覧になる場合はこの記事のトップにあるリンクまたはサイドバーの「マイフォト」欄の31.DEKT in Koeln 2007をクリックして下さい。

なお、初日水曜夕方に行われた、65,000人(主催者発表)が参加したという、ライン河畔(Poller Wiesen)の主要礼拝会場での開会礼拝の写真はありません。
なぜかというと、会場に一番近いと思っていた橋が封鎖されていたため、子どもを連れて次の橋まで歩いてまわってるうちに、会場に辿り着く前に開会礼拝が終わってしまったからです(涙)。

そういうわけで、家族みな疲れてしまい、40万人(主催者発表)が訪れたという初日の夜の"Begegnungabend"(出会いの夕べ)も比較的早めに退散し(といっても夜9時ぐらい。でも6月なのでまだまだ明るい)、民泊先のお宅へと戻ったのでした。

まぁ街全体に拡がる広大な会場間をひたすら歩き回るというのも、これまたキルヘンターク体験のうちということで…。

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2007.05.25

Conflict Myths in Western Culture/西洋文化における対立をめぐる神話

今期、アメリカからJerry Schmalenberger
という引退教師の人が集中講義のために、私が在籍するAugustana Hochschule(AHS)に来ています。
この方は、Evangelical Lutheran Church in America(ELCA)の8つの認可神学校のうち、アメリカ西海岸地域をカバーするPacific lutheran theological Seminary(PLTS)の学長を88-96年に務めた後引退し、その後、ELCAの世界宣教局(DGM)からGlobal Mission Volunteerという名目で、世界各地の神学校にアドヴァイザーとして派遣されているそうです。この10年で、アフリカや南アメリカ、またアジアでは香港、中国本土、ミャンマー、ネパール、インドネシア、の各地で、神学校・ディアコニア養成機関などの創設の支援や、牧会学・説教学などを教えてきたそうです。元気だな〜。
Schmalenberger師(Prof.Jerryというのが愛称)は、AHSならびにNeuendettelsauとは縁が深く、今回は5度目の来訪だそうで、私の指導教授のStegemann師とは旧知の仲らしい。

で、今回の集中講義のテーマは「Conflicted Congregation(対立を抱えた会衆)」
古今東西の教会において必ず発生する、教会内での対立の問題を分析し、その対応について考えるというもの。
私の研究には確かに直接には関係は無いものの(普遍的な教会論的問題として間接的には関係あるわけですが)、一応これでも牧師なので、こういうテーマに関心が無いはずがない。というわけで、学生さんに混ざって参加。
Prof.Jerry自身のアメリカでの牧会体験やアジア各国での宣教師としての体験を交えつつ、教会内における対立の発生プロセスと、それに対する対応方法、今後の課題などを概観しました。
対応の方法論などは、ベースがアメリカ文化なので、東アジア的あるいは日本的な文脈に適合しない点もありましたが、問題発生の分析などはやはり共通点も多く、大変参考になりました。
Prof.Jerry自身のレジュメも大変参考になったのですが、参考資料として紹介されたDavid, AUGSBURGER, Conflict Mediation Across Cultures: Pathways and Patterns,  Louisvile/Ky. (Westminster/John Knox Press) 1992からの一節は、特に印象的でした。

ちなみにD.Augsburger師は、Fuller大で牧会学を担当。文献そのものについては、Google Booksをご参考下さい。

というわけで以下、AUGSBURGER 1992から引用・翻訳(翻訳は引用者による)。

Conflict Myths in Western Culture/西洋文化における対立をめぐる神話

David, AUGSBURGER, Conflict Mediation Across Cultures: Pathways and Patterns,  Louisvile/Ky. (Westminster/John Knox Press) 1992, 243

I. CONCORD: Harmony is normal; confflict is abnormal.
  Concord is the normal, natural, neutral state of human community;
  thus any disruption is abnormal, pathological, lamentable.
  No.
  In every state of concord the conditions of future conflict lie embedded.
  These are the occasions of creativity in healthy community.

II. CONFUSION: Confusion is irrational; clarity is rational.
  Confusion is intolerable, threatning, inferior, a state to be feared, fled, denied.
  No.
  Confusion is suspending judgment, deferring closure, maintaining openness. The ability to sustain confusion is the beginning of wisdom.

III. CONFLICT: Conflict is undesirable; when unavoidable, it is deplorable.
  Conflict is a destructive process in human relations and is best suppressed or oppressed.
  No.
  Conflict is both inevitable and resolvable. It is the opprtunity to restructure relationships, realign tasks, redistribute resources, renegotiate covenants, and realize new levels of communication.

IV. CONFRONTATION: Confrontation is defining rightness and wrongness.
  Confrontation is fixing blame, defining who is right and who is wrong.
  No.
  Confrontation is both caring and clarifying; it is concern for relationship with concern for goals.

V. CONCILIATION: Differences must be decreased, similarities increased.
  Conciliation creates conformity, uniformity, commonality, and agreement.
  No.
  Cooperation, collarboration, and co-creation can reduce stress, increase respect, and enhance distinctiveness and differences.
  Differences are the occasion of conflict, similarities the cause.

VI. CLOSURE: Conflict concludes in commitment to maintain future peace at any price.
  Effective resolution requires the commitment of both parties to permanent solutions.
  No.
  Conflict closure channels and covenants differences, celebrates the understandings achieved, and fosters appreciation of the new pathways for manaaging differences.

VII. CONCORD: Concord is final; harmony is total; differences are ended.
  Concord is a state achieved; permanency is guaranteed; peace is achieved.
  No.
  Concord is covenanted, but it is human, fallible, and will need to be renewed and remade again and again.

I. 一致:調和は正常である。すなわち、対立は異常である。
 一致は正常であり、自然であり、人間の共同体のニュートラルな状態である。したがって、あらゆる分裂は異常であり、病的であり、嘆かわしいものである。
 否、そうではない。
 あらゆる一致の状態の内には、将来の対立の条件が埋め込まれている。
 それらは健全な共同体における創造性の契機である。

II. 混乱:混乱は非理性的である。すなわち、明快であることは理性的である。
 混乱は耐え難いものであり、脅迫的で劣等なもので、怖れられるべきであり、それから逃れるべきであり、否定されるべきものである。
 否、そうではない。
 混乱は判定を継続させており、終結を遅れさせ、開放性を保持する。混乱を持続させることができることが叡智のはじまりである。

III. 対立:対立は望ましくないものである。すなわち、それが避けられないとしたら、悲しむべき事である。
 対立は人間関係における破壊的なプロセスであり、それだから、最高度に抑圧され、圧迫されている。
 否、そうではない。
 対立は、不可避でありながら、同時にまた解決可能でもある。それは関係の再構築、作業の再調整、資源の再分配、取り決めの再交渉の機会であり、また新しいレベルのコミュニケーションの実現の機会でもある。

IV. 対決:対決は、正しさと誤りとを明らかにする。
 対決は咎められるべきを確定し、だれが正しくだれが誤っているかを明らかにする。
 否、そうではない。
 対決は、配慮でありながら、また同時に明確化でもある。すなわち、それは、複数のゴールを思慮することと関係することを思慮することである。

V. 調停:差異は減少しなければならず、類似が増加しなければならない。
 調停は適合、単一性、共通性、そして合意を創出する。
 否、そうではない。
 協力、協同、そして共- 創は、緊迫を軽減し、敬意を増大させ、そして特色と差異をさらに高める。
 差異は対立の契機であり、類似は(対立の)原因である。

VI. 終結:対立は、なにがなんでも将来の平和の維持するという公約において終結する。
 効果的な解決策は、恒久的な解決のための両陣営の公約を必要とする。
 否、そうではない。
 対立は、いくつかのチャンネルを終結させ、差異を合意[契約]させ、得られた理解を祝い、そして差異を処理するための新しい道筋を評価することを促進する。

VII. 一致:一致は最終的なものである。すなわち、調和こそ完全なものである。差異は終えられる。
 一致は達成された状態である。すなわち、永続性が保証される。平和は達成される。
 否、そうではない。
 一致は合意[契約]されるが、しかし、それは人間的であり、誤りを免れないものであり、繰り返し繰り返し刷新され作り直されることが必要となるであろう。

「西洋における」とはいうものの、その指摘の多くは、日本のキリスト教界における状況にもよく当てはまると思わされました。また単にキリスト教界や個人的人間関係のレベルに留まらず、もっとマクロなレベル、例えば現代における日本と近隣諸国との関係を考える際にも、示唆するところは大きいのではないかと考えさせらたのでした。

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2006.12.31

ドイツの教会の礼拝の優先順位?

今年は、12/24、いわゆるクリスマス・イヴが日曜でした。
そういうわけで、多くの日本の教会では、

  1. 「待降節第4主日」ないし「降誕主日」として、いわゆる「主日礼拝」を24日の午前中に行う。
  2. それに加えて、夕方ないしに夜に、いわゆる「イヴ礼拝」を行う。

となっていたのではないかと思います。もちろん、牧師が複数の教会を兼務している昨今では、必ずしも日曜の午前中に礼拝があるとは限らないことを念頭において、ではありますが。

ついでに、12/24が日曜になると、必然的に12/31が日曜になります。だから多くの日本の教会では、

  1. 12/31にいわゆる主日礼拝(降誕後主日)を行う。
  2. 1/1に元旦礼拝を行う。

というところが多いのではないかと思います。もちろん元旦礼拝を実施しない教会も多いですし、あるいは地区の合同礼拝にしたりすることも多いかも知れませんが。

しかし、いずれにしても、このクリスマスから新年にかけてというのは、連日礼拝が続いて、牧師や奏楽者はもちろんですが、年末年始の忙しい時に出てこないといけない信徒も結構たいへん、という教会も多いのではないかと思います。

ところが、ここドイツ・Neuendettelsauの村の教会(St. Nikolai)では、12/24も12/31も、いわゆる主日礼拝が無いんです。びっくり。

12/24(日)は、通常の主日礼拝(9時半から)はお休み。午前中は幼稚園児を対象とした子ども礼拝のみ。2名いる牧師は、周辺地域の村の教会も担当なので、それぞれの村の教会で「クリスマス礼拝」。そして夕方から夜にかけて、17時、19時、22時と牧師が交代で計3回、いわゆる「イヴ礼拝」が行われました。つまり、「主日礼拝」は全然無くなっちゃったんですね。
その後の12/25と12/26は、ドイツでは両日とも「祝日」で、両日とも教会では午前中に「クリスマス礼拝」が行われました。でも、両日ともに出席する人は、普通はいないらしい。神学校も海外宣教局もあるこの村には(現役・引退共に)牧師が多いこともあり、礼拝の担当もそれぞれ交代です。

そして、今日12/30(土)の夕方に妻と「明日は教会学校(Kindergottesdienst)はお休みだとか言ってたよね〜」「いや、2回目の方(この村は今時のドイツでは珍しく子どもが沢山いるので、教会学校が毎日曜に2回行われている)はあるんじゃなかったっけ?」とか、いつものように不毛な論争が始まった為、隔月発行の教会報を見てみると・・・なんと、「12/31は9時半からの礼拝はありません」と書いてある。当然、教会学校も無い。つまり、教会学校あるの無いの、そもそもがそんなこたぁ問題ではありませんでした。まさに不毛・・・。実は、12/26の第二クリスマス礼拝に行った際、次週の予定についての報告を聴いていたのですが、まさか12/31の礼拝も休みとは思っていなかったため、「教会学校はありません」というところだけ頭に入っていたようです・・・。

ちなみに、12/31の礼拝は、17時から「大晦日礼拝」のみ。そして、明けた1/1の午前中には「新年礼拝」が行われます。

いやいや、別にこれは牧師が手抜きしてるわけでも、どうせ人が来ないから、ということでは無いとおもうわけですよ。だって、担当できる牧師は沢山いるし、この村は今時のドイツでは大変めずらしい、教会活動の極めて盛んな村なんですから。

妻の分析によると、これは「ドイツ(少なくともNeuendettelsau)では、暦上の祝日の方が、主日よりも優先順位が高い、ということなのではないか」ということだそうです。
つまり、暦上で特別な礼拝が割り振られている日と、通常の主日礼拝が重なった場合には、その日は主日礼拝の日とはみなされずに、特別な礼拝の日、とみなされる。したがって、12/24も12/31も、主日礼拝のための日ではなく、特別な礼拝の方の日として扱われる。だから、通常の礼拝は無い、ということになるのではないか、という分析です。
なるほどな〜。たしかにいかにもドイツ人ならそういう風に考えてもおかしくないな〜。きっと「なんで同じ日に、両方やらないんですか?」と聞いたら、「そんなのは非論理的(unlogisch)だ」とか「非実用的(unpraktisch)だ」とか、多分そういうこと言うんだろうな〜。

いやいや、日本だったら、「主日礼拝を休みにするなんて不謹慎な」とか「牧師の手抜きだ」とかいう非難が即座に起こりそうですが、今日的なドイツ社会では「主日と祝日を同じ日に両方ともやるのはおかしい、だから、どちらかだけにするべき」という見方もあり得るわけですな・・・。
所変われば、まぁいろいろっすね。

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2006.11.03

Halloweenならぬ宗教改革記念日にルターキャンディ(Lutherbonbon)

締め切りが迫っているのですが、ネタが旬のうちにということでとりあえず投稿。

10月31日と言えば・・・、プロテスタント教会ではルターの「宗教改革記念日」です。
映画とか物語とかだと、この日に青年ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の論題を打ち付ける場面とかあったりしますが、史実かどうかはわからない らしいです、(と、徳善先生が言ってた)。
11月1日が休日(Allerheiligen諸聖人の日)なので、その前に郵便で複数の宛先に発送したのは事実だそうですが、ルターが自分で教会の扉に打ち付けた、というのはメランヒトンの言だそうで、公式の記録は残されておらず、ルター自身もそれについては何も触れていないそうです。

で、それはさておき、この数年の間に、ルター宗教改革のお膝元であるここドイツでも、10月31日は宗教改革記念日というよりは、ハロウィーンとして商業戦略が展開されるようになってきたそうです。

実際、夏物一掃セールが終わったあと、クリスマス商戦までの期間は、ハロウィーン商戦にぴったりなわけで、スーパーなどでも盛んに関連商品(コスチュームやお菓子、窓飾りなど)の宣伝をしていました。

同じアパートに住む、うちの息子の元の担任の先生によると、この5年くらいの間に急速にドイツに「ハロウィーン」が流行しだしたとのこと。ドイツでは公立学校の授業科目として「宗教科」が設置されているのですが、かつてはこの宗教の時間には必ず「10月31日は宗教改革記念日ですよ」というのを教えたものだけれど・・・まぁ子どもにとっては宗教改革記念よりハロウィーンの方が楽しいからね・・・頭ごなしに否定しても意味ないですよね・・・、と語っておられました。

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結局、我が家でも子ども達が仮装(一番上の子のマスクは購入したもの。間近で見ると本当に怖い。)、隣のアパートに住む一番上の子の同級生と、アパートの住人を訪問。

それぞれのお宅からお菓子をもらってご満悦でした。

そんななか、10月31日には、ハロウィーンではなく宗教改革を思い起こそう!というキャンペーンが、北ドイツのNordelbische Evangelisch-Lutherische Kircheで行われているそうです。

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このキャンペーンのキラーアイテムは、その名もルターボンボン(Lutherbonbon)。包み紙にルターの顔と「10月31日は宗教改革記念日です」という文言が印刷されています。
ハロウィーンの晩に訪ねて来た子どもに、このボンボン(キャンディ)を渡して、「今日は何の日かな?」と言って啓蒙しよう!ということらしいです。

10/29の日曜日の礼拝後に、キャンペーンの紹介のために出席者に配布されて私ももちろんもらった(子ども達自身も子ども礼拝でそれぞれ既にもらって来ていた)のですが、31日にはさらにもう一度、お隣でもらってきました。

一袋14個入り1.75EUR(約260円)、15袋入り箱で19.65EUR(約2900円)いずれも送料別。海外発送出来るかどうかは不明です・・・。

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2006.08.03

第40回国際エキュメニカルセミナーin ストラスブール

昨日から、妻子が夏休みを利用して一時帰郷。当然私は論文作成に集中するため一人居残りです。
ただでさえ静かな田舎暮らしがさらに静かです。普段はめんどくさい子どもの送り迎えなども、無くなってみると寂しいものです。
いやいや人間とは実に勝手な生き物ですね(笑)

というわけで、論文だけでは気が滅入るので、この機を得てブログもサクサク更新(<−するなよ、笑)。

さて、先月(7月)はなんだかんだで、出かけることの多い月でした。

7月の上旬、5-12日には、フランスの最もドイツよりの都市で、現在のEU国会のあるStrasbourg(ストラスブール)にある、エキュメニカル研究(Institute for Ecumenical Research)で開かれた第40回国際エキュメニカルセミナーにEKDの奨学生として参加してきました。
今年のテーマは、おそらくこの2月にブラジルで開かれたWCC総会との関連もあって選ばれたと思われる「聖霊」、特に「ペンテコステ運動との対話」というものでした。
詳しくはこちら

講師陣は、アフリカ、アジアのペンテコステ運動の指導者である神学者らと、ヨーロッパからはエキュメニカル・インスティテュートの研究員らと日本でも著作が翻訳されているT.ズンダーマイヤー師、と大変聞き応えのある顔ぶれでした。
セミナー全体の流れとしては、いわゆるメインラインチャーチの不振に対するペンテコステ運動の世界的な躍進をどのように受け止めるかということと、今日におけるキリスト教宣教の本質について問いかけるということが、大きなテーマであったと、私は受け止めました。
ズンダーマイヤー師は、欧米とアジア・アフリカ・ラテンアメリカにおけるペンテコステ運動をひとくくりに扱うことを疑問視しつつ、自身のアフリカでの宣教師としての体験を基に、キリスト教の土着化(文脈化)とキリスト教の多様性を重視して、場合によってはペンテコステ運動をむしろ文脈化の一つの形態として捉える可能性があることを示唆していました。
またアジア・アフリカのペンテコステ運動の指導者らの講義では、共に共通して「ペンテコステ運動とは教会の霊的職務の民主化である」と語っていたことが大変印象に残りました。

無論、私自身の教会的背景からすると、私自身にとってはペンテコステ運動は、ちょっとなじめない感を否定できないのは事実なのですが、同時にポスト・コロニアルの時代において、キリスト教の宣教も既存の教会組織ならびにそれを補完するための神学的論拠を移植するという植民地的な方法論がもはや通用しなくなっている状況をひしひしと感じることの出来る、貴重な機会となりました。
しかし、参加者のほとんどは欧米のメインラインチャーチに属する人が圧倒的に多く、加えてその中で、いわゆる「非キリスト教国」(あるいはキリスト者が圧倒的に少数派となっている地域)からの参加者は、はっきり言って私だけでした。
そのためか、既存の教会の組織体制を脅かす存在として、ペンテコステ運動を捉える人が圧倒的に多く、その意味では既存の教派神学の枠組みから他教派を批判するという方法論でしかペンテコステ運動を見ることが出来無い人が非常に多かったのが、私自身にとっては大きな驚きでした。
きっと、ペンテコステ運動について知ることを通して、現在の問題となっているメインラインチャーチの問題点・課題点を振り返るという、という展開になるんだろうと、プログラムの最初に予想していたのですが、大きく外れることになってしまいました。むしろそこに、現在のメインラインチャーチが抱える大きな課題を垣間見た思いがしました。

特に、「霊性=スピリチュアリティ」を語る時、通常欧米のメインラインチャーチにおいては、個人的な霊的充足のみを表すのであって、信仰の共同体性というものは全くこれっぽっちもひとっかけらも考えられていない、ということを目の当たりにして、今更ながらものすごく驚きました(笑)。
いや、もちろんそうでない意見を持っている人だっているわけですが、それはあくまでも周縁化された立場であって、決して「メインライン」ではありえないんですね。
今更ながら、信仰とはあくまでも「神聖にして侵すべからざる個人の領域」であって、絶対に他人を寄せ付けず、他人と分かち合うことの出来ない排他的領域として捉えられているんですね。そしてそれは文化を支える構成的規則として成立しているっていうか、それに対して疑問を呈することは赦されない大原則なんですよ。だから、教会っていうのも、いわば要するに殻が固い豆の一つ一つの集合体であって、それをいれとくための容れ物として教会組織とそれを補完する神学的枠組みが要るわけですね。

一応、アジア的集合的アイデンティティの文化背景からの唯一の参加者として、バラバラの豆の集合では無い文化だってありうるし、いわば納豆とかミソみたいになってるところだってあるわけで、そういうところでの教会形成の課題は容れ物としての枠組みを整理することもさることながら、むしろその中での様々なレベルでの信仰体験の共有がものすごく重要になってくる、という話を何度かしたのですか、かる〜くいなされてしまいましたというか、他の参加者には解ってもらえませんでした。まぁ語学の問題もあるわけですが・・・(涙)。
そういうわけで、いろいろな課題を見せつけられ、考えさせられたセミナーでした。

ところで、ズンダーマイヤー師はこの春にも東アジア各国で講演に呼ばれたそうで、日本でも数カ所で講演したそうです。これまでにも何回も来日しているわけですが、でもなぜか日本でルター派の教会から講演に呼ばれたこともなければ、ルター派の牧師と会うことも無かったそうです。「僕はルター派なんだけどね・・・」と笑ってました。いやいやお恥ずかしい。いやでもきっと、はっきりとそれとは分からなかっただけで会ってないってことはないとは思うんですが・・・。でも、講演に呼んでないのは本当ですね(聞いたこと無い)。関係の皆様、乞うご検討。

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2005.06.02

30.Kirchentagに行ってきました

まいど、LEEでございます。
しばらく更新をさぼっている間に6月になってしまいました・・・。
言い訳させていただけますと、家族が渡独した後、中古車探して手続きしたり、滞在許可申請したりやらで、結構忙しかったんす。

といっても雑事に追われるだけでなく、一応指導教授と月1回程度で面談してもらって、論文の方針について相談していたりするわけで、そういうことする日の前の数日に、あわてて文献をリストアップして目を通してレジュメを作って、相談が終わったらまた来月の相談の日程を大体取り決めて・・・という具合に、いやでも論文作成をやらなければならないようにスケジュールを作るようにしてます
そうでもしないと、ついつい遅くなりますからね〜。

さらに、先週の5/25〜29には、北ドイツにある、かつての万博開催都市として有名な、ハノーファーで行われた、第30回キルヘンターク(Kirchentag)に行って参りました
現在住んでいるノイエンデッテルスアウからハノーファーまでは、特急列車を利用しても丸々4時間はかかるのですが、神学校の学生たちは30人程がバスをチャーターして、ハノーファー市内の学校の体育館にシュラフで寝泊まりすることにして、参加していました。
私はといえば、現在の私の奨学金スポンサーである、Diakonisches Werk der EKDが奨学生向けに特別に安く(しかもちゃんとしたホテルでの宿泊で)団体参加を企画していて、原則的に必ず参加するようにとの連絡があったため、そちらの枠組みで参加しました。

キルヘンタークには、特にテーマというものは無いらしいのですが、主題聖句は毎回選ばれるらしく、今回は申命記6:20の、十戒とそれを子どもに教えることに関する箇所となっていました。
催しは主として「どう信じるか」「どう生きるか」「どう行動するべきか」という3つの分野に大別されており、ドイツの教会の課題を反映しているのだな〜と思わされました。

Kirchentagそのもの感想としては、しかしまぁとにかく、聞いてびっくり、見てびっくり、というのはまさにこのこと、という感じでした。
初日(5/25)、宿舎にてDiakonisches Werkの奨学金担当のSchneider師から、Kirchentagに関する基本的な情報に関してインプットを受けた後、街の中心地の屋外会場(ハノーファーオペラ劇場前広場)での開会礼拝に参加。
ところが、会場脇の地下鉄の階段を上がったとたん、もう人がいっぱいで身動きがとれない!
日比谷野音ぐらいの大きさの広場に、入りきれない程の人たちが詰めかけています。後で知りましたが、これは参加者全体(約10万人)のほんのごく1部に過ぎませんでした・・・。
ハノーファー領邦教会の女性の監督の説教による開会礼拝の後、連邦大統領(ケーラー)と連邦首相(シュレーダー)が挨拶
ケーラーは、「Evangelisch(プロテスタント)教会はドイツの魂のふるさと」みたいなことを言ってました。ええんかいな、んなこといって。
う〜ん、まぁもちろん私人としての参加なのでしょうが・・・。
ドイツでは政教分離が原則ではあるのですが、そうはいっても、キリスト教そのものが文化・社会制度の一部になってしまっているので、完全に分離することはなかなかできないようです。
ちなみに、ケーラー自身は、現在のドイツの中の約3分の1を占める、「ドイツ生まれでないドイツ人」だそうで、戦争前に東欧の方からから移ってきた人だそうです(ちょっと曖昧なので、要確認ですが)。
シュレーダーはハノーファーが地元なので、大歓迎されていました。実際には「テレビ信者(=教会には行かないクリスチャン)」らしいですが、いかにも政治家らしく、場に併せて平和主義と寛容の重要性を訴えていました。
その後は、ハノーファーの街中でオープンに、いろいろな教会やキリスト教団体・施設などが屋台を出して、街中がお祭り騒ぎとなりました。
嘘か本当か、Kirchentag参加者以外の人も含めて40万人が、この夜の催しを訪れた、と報道していました・・・。
今住んでるノイエンデッテルスアウなんて人口8000人ですよ。この村の50倍の人が一晩で訪れるとは・・・。

翌日からの3日間は、ハノーファーメッセを主会場としつつ、ハノーファー市内の教会・施設も併せて、延べ3000以上の催しが併行して行われました。
当然全てを見られるはずもなく、私としては、時刻表並みに分厚いプログラムの中から自分の関心にあった催しを見つけるだけでも一苦労でしたが、結構ドイツの人は、あくせくあちこちを回ったりはしないらしく、メッセの噴水の周りの芝生とかで昼寝している人も、ものすごくたくさんいました。
高い入場料払って何しに来てんねん、と私なんかは思ってしまうのですが、ドイツの人は、「急ぐ」とか「慌てる」とかいうのを極端に嫌うというか、「暇なしで頑張る」とかいうことを全く評価しない(というか、普通マイナスの評価しかしない)ので、全然かまわない様です。というか、徹底した個人主義なので、人がどう思おうと関係ないんですね、そもそも。

私はといえば、アジア人らしく朝から晩までメッセ会場をあちこち動いて、いろいろな団体のブースを見学したり、著名人の講演を覗きに行きました。
ケーラー大統領、フーバーEKD議長、マータイ氏(ノーベル平和賞を受賞したケニアの女性)とシュレーダー首相他との対談、ユンゲル師、モルトマン・ヴェンデル師など、名前だけは知っていた人たちの肉声を聞くことができたのは、大きな刺激となりました。
その他に、今回は「信仰・霊性」といったことがテーマとして多く取り上げられており、現代ドイツ教会の課題をかいま見た気もしました。
また、「削除することのない過去」と題して、戦後60年を振り返って、ナチ時代の証言などを語る催しもありましたし、同性愛者の方々によるブースや講演会も開かれていました。
そういうわけで全体としては、「右から左まで」あらゆる分野の催しがあり、Diakonisches Werk奨学金担当のSchneider師によれば、「キリスト教の巨大スーパーマーケットみたいなもの」というのも、分かるような気がしました。
ちなみに、このSchneider師にとってKirchentagとは、「そこを訪れると青年の時の思いが戻ってくる、そしてそこではいつでも青年の時に戻ることができる、そういう場所」だそうです。

最終日の日曜は、ハノーファー市庁舎(Rathaus)横の、サッカー場2つ分ぐらいの広大な空き地に参加者の多くが集まり閉会礼拝が行われました。
礼拝の終わりには、来年ザールブリュッケンで開かれるカトリッシュターク(カトリック教会のキルヘンターク)へのお招きと、2007年にケルンで開かれる次回のキルヘンタークへのお招きの言葉で締めくくられました。

いやいや、しかし、「教会離れ」の進むドイツで、礼拝や教会関係の集会にこれだけたくさんの人が集まっているのを初めて見ました。
運営はEKDによるものではなく、基本的にボランタリーな運営委員会によるものだそうですが、資金的には参加費だけではまかなうことは不可能で、領邦教会や教会税などから補填し、それでも毎回の開催は赤字になっているらしいです。
それでも、これを続けるというエネルギーとモチベーションはどこから来るのだろう?ということを、もう少し掘り下げてみたいなと思いました・・・。

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2004.12.07

アウグスタナ大創立記念講演会

アウグスタナ神学大学創立記念行事の中の記念講演会ですが、今年のタイトルは、
"Wie halten wir's mit dem Islam? Eine christliche Selbstversta¨ndigung unter dem Eindruck terroristischer Gewalttaten"
というものでした。
直訳すると「私たちはイスラムとどうやって付き合うか?テロリスト的暴力行為の印象の下でのキリスト教側の自己合意」。
いやーどうなんですかね。タイトルからして、イスラムに対する偏見を含んでいるのか、キリスト教側の自己批判なのか、なかなか微妙な感じを醸し出しています。

講演者は一般的に「保守的」と言われるバイエルン州の与党であるCSUの議員で、州議会の大臣(ドイツは各州毎に議会と省庁があります)でもあるDr. Gu¨nter Beckstein氏と、ハンブルク大のイスラム宗教研究所の教授Prof.Dr.Olaf Schumann氏の2名で、その後その他教会関係者、宗教学者、神学者、学生を交えてのパネルディスカッションがありました。

具体的な背景として、EUにトルコが加わるにあたって、もっともトルコからの移住者が多いドイツはどういう対応をとるか、ということがあるようです。
イスラム法とヨーロッパのその他の諸国の法体系との(特に女性の人権に関する)整合性をどうするか、というのが、現在のEUの大きな課題の一つとなっています。
ちなみにパネラーの学生からは「トルコの女性の人権も問題化もしれないが、このパネラーに女性が一人もいない(実際いなかった)というのも、十分問題なんじゃないですか」という意見が出され、会場からは拍手がわいていました。

そして、ドイツでは公立学校でも宗教教育の時間があり、公立学校では原則プロテスタント教育が行われています(カトリック教育は私立学校で行われている)。で、宗教教育としてイスラム教育を認めるかどうか、ということなども具体的な課題になっているようです。
外国人の立場見ると、公立学校で宗教教育が行われている時点で、既に状況が日本とは違うので何とも言えませんが、「やったらえーやん」という程度の感じしかしないのですが、結構国際政治上の駆け引きも絡むらしく、ややこしい問題のようです。

基調講演者の一人、CSUのBeckstein氏は、政治家らしく絶妙なバランス感覚で厳しい問題をかわしつつ、「寛容」の態度でドイツ国内におけるイスラム教徒(実際ほとんどトルコのことしか言ってなかったけど)との個々人のレベルでの出会いの重要性を主張していました。
もう一人の基調講演者、Schumann氏はイスラム学者だけあって、ドイツ(およびキリスト教側)からのイスラムに対する偏見への批判を込めて、イスラムの教えの人道主義の原則について滔々と語っていたのですが、あまりに小声で早口の上にひたすら長く話すので、内容はほとんど理解できませんでした。神学校のある教授にあとで「全然わかんなかったんですけど」と聞いたら、「多分、他の人たちもみんなわかんなかったと思う」ということでした。

講演後のパネルディスカッションを含めて、全体としては、「寛容」と「出会い」で隣人関係を築こう!そのために教会も開かれた場になろう!というまぁいかにも無難な線でまとめられました。

その他、会場からの質問では、出るべくして出たという感じですが、「イスラムに対してテロ行為というが、アメリカとイスラエルがパレスティナでやってるのはもっとすごいテロじゃないか、それに対してキリスト教は自己批判しないのか」というものがでました。
しかし、ドイツでイスラエル関係の話題にふれるのは、これがまたものすご難しい問題らしいんですわ。ある種公の場ではタブーですね。
心情的には、誰も現状の国家としてのイスラエルの行為にものすごく批判的なのですが、表だってユダヤ批判をすると即、「反ユダヤ主義(アンチセミティズム)」=「ネオナチ」という政治的烙印を押されてしまう、という状況があるようです。
冗談にならないのは、また実際にそういう極右グループ(ようするに「ネオナチ」)が現に存在していて、実際にそういう発言(もっとももはや反ユダヤ発言に限らず、外国人排斥一般に手を広げていますが)をしていて、社会不安の原因にもなっていることなんですね。

私の意見としては、実際問題一般に報道される、いわゆる「イスラム原理主義によるテロ行為」の背景にはあきらかに中東における「キリスト教原理主義」と「ユダヤ原理主義」による国家的軍事的テロ(虐殺)行為がまず先にあると思うので、イスラエル問題をヌキにして、イスラム問題は語れないはずなのですが、今回の講演会ではそこのところには残念ながら触れられずじまいでした。

テーマは「イスラムとの関係」だったのに、かえってドイツにおけるイスラエル問題の微妙さをつくづくと感じた記念講演会でした。

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2004.10.14

ドイツ東亜ミッション120周年記念シンポジウムへの参加

9/23-26と、南ドイツ福音主義宣教会(以下EMS)の関連団体であるドイツ東亜ミッション(以下DOAM)の120周年記念シンポジウムがワイマールで行われました。
EMSおよびDOAMは、日本では主として日本基督教団、富坂キリスト教センターNCC宗教研究所(京都)との間で協力関係がある海外宣教団体ですが、日本福音ルーテル教会(以下JELC)との組織的な関係はこれまであまり無かったのではないかと思います。
今回たまたま私の早稲田時代の恩師が、DOAMの初代日本宣教師シュピンナーの日記を翻訳・出版した関係で、シンポジウムで講演することになり、私も飛び入り(事前申込無し)で参加させてもらいました。
飛び入りではありましたが、EMSの担当者の方は快く参加の手続きをしてくれて、ウソかホントか「次回の定例会はノイエンデッテルサウが会場になるかもしれないから、またよろしくね」とのことでした。
またEMSの主事の方は、NCC宗教研究所を視察に来られた際に、当時私が赴任していた日本福音ルーテル京都教会に宿泊されたことがあり、私のことも憶えておられました。
今回は記念シンポジウムということもあって日本からも多くの参加者があり、私と同様今年度のEvangelische Kirche in Deutschlan・Diakonisches Werk(以下EKD・DW)奨学生の一人でもあるU師も参加していました。
今回は私自身は飛び入りでの参加ではありましたが、EMSはLWFとともに今回の奨学金の原資を出している団体でもあり、このシンポジウムに出席されていたNCCドイツ委員会委員のある方は、二人の今年度奨学生の参加を歓迎しておられました。
その他、ベルリンから参加されていたある牧師で、随分前に日本訪問団を組織した際に大阪市西成区あいりん地区にある、JELCディアコニアセンター喜望の家を見学したことがあると伺いました。
この方からは「(日本の)ルーテル教会からの参加者はあなただけなのだから、あなたの役割は大きい」とハッパをかけられてしまいました。
このシンポジウムの内容は、東アジアにおける宣教のあり方を考える上でも、また私自身の研究テーマの一つである、使徒時代の宣教のあり方を考える上での、多くの示唆を与えられました。

なお、このシンポジウムの内容はDOAMのホームページで公開されるとのことです。
(全ての講演記録について、日本語・韓国語・ドイツ語への翻訳があるそうです。)

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