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2006.02.26

「中心と周縁」考:くまのみさんの「海辺のノート」より

友人のくまのみさんのBlogに刺激を受けて、コメントしようと思ったら、例によってつい力が入りまくってしまって大長編になってしまったので、しかたがないので、自前のBlogで書くことに。
Blogってこういう使い方で良いのだろうか・・・。
以下、まずくまのみさんのBlogをご覧の上、お読み下さい

リンク: 海辺のノート.

「中心と周縁」の相克は、今の僕の研究テーマでもあるので、是非読んでみたいですね〜。
残念ながらここではちょっと手に入りませんが(涙)。

ところで、「中心と周縁」については山口昌男が70年代以来、王権制度との関係で論じていて、今回の僕の研究でも重要な参考資料になっています。
ぶっちゃけて言うと、中心ー周縁という関係は相対的で、人は中心を決めるために、まず周縁を創り出す、と言えるでしょうか。そしてそういう「中心ー周縁」関係を目に見える制度とし体現しているのが、王権だっつうことですね。当然、「正史」としての「歴史」はこの王権(中心ー周縁)構造を正統化・保全するものとして構築されます。
別の言い方をすると、中心は「日常」であり、それは「正常」と「秩序」と「安定」を有している「神聖なもの」である、ということを示すために、まず「異常」と「混沌」と「不安定」に支配された「非日常」である「穢れた」周縁というものをまず創り出すことが不可欠だっつうことらしいです。

でも、「安定」と「不安定」というのは、逆の視点でみれば「停滞」と「変革」でもあるわけですよ。
だから、正史というのはむしろ文学を含めた芸術の領域では題材としてつまらないというか、味もそっけもないというか、全然人の心に訴えかけないんですよね。
むしろ、そういう人の心を揺さぶるようなダイナミクスは周縁と中心との葛藤から、つまり「正史」の枠組みからの逸脱の中でこそ生まれて来るんですね。
山口昌男は日本の「神話」としての風土記あるいは古事記の中の、「反構造」と「逸脱」の象徴でありなおかつ「歌の神」であるスサノオノミコトの分析から、上記のようなことを言っています。

そういう意味で、中心にとっては、自らが創り出した周縁をいかにして手なずけるかっていうか、いかにして、うまいことその変革の活力だけを取り込んで、日常の安定に寄与させるか、というのが、ものすごく大事なことになると思います。
そういう意味では、日常性を支える王権構造を保全するために有利に働くように、周縁における現象を修正する歴史修正主義って言うのは、活力ある周縁から、停滞してしまった日常へと、その活力を奪取するための王権構造的社会システムの典型なのではないでしょうか。

周縁の持つダイナミズムを生で体験したものにとっては、歴史修正主義の中身がはっきり言ってまがい物でしかないことをすぐ理解できるのですが、「日常」の中にどっぷりつかった立場では歴史修正主義の陳腐さがかえって心地よくなるというか、神聖にして正常なる日常を否定する輩の気が知れん、てなことになるんでしょう。
刻々と鮮度の落ちる本物のカニよりも、いつまでも腐らない「かにかま」の方が正しいに決まってる、って言うみたいなもんですよ(笑)。

ところで、一度も東北に住んでいない僕がこんなことを言うのははっきり言っておこがましいのですが、いわば「中心」から見た「周縁」としての東北が、現代の日本の政治構造の中では重要な保守の基盤となっているということは、その生産構造と同時に、周縁を懐柔することが「中心」が「中心」でありつづけるために不可避であったからではないかと思います。
周縁として中心に従属することによってのみ、「正史」の中での立場を獲得できる、言い換えれば「停滞した日常」に意味を形作ることができるような位置に、東北を置き続けることが、中心が中心であり続けるためには不可欠であったのではないでしょうか。

しかし、難しいのは、中心としての「正史」の否定がかならずしも「周縁」からの抵抗の形にならないっていうことなんですよね。「正史」の否定は、いともたやすく反動を利用されて「正史」の肯定のためのネタにされてしまうんですよね。というのも、その場合そもそも「正史」の存在を前提にしなくちゃならないからですよ。っていうことは、中心に対しての周縁という見方そのものがまず、中心を支えていることにもなるわけですよ。
だから、中心の存在を無視するっていうか、ローカルの論理に徹するっていうのが中心にとって最も厳しい打撃なんですが、それはそれで、ローカルの中に自前の小さな中心と周縁とを再生産することにもなっちゃうんですよね〜。

ここらで、自分の土俵に無理矢理話を持って行くと、僕の研究の最終的な目標は、新約聖書のルカ文書(ルカ福音書・使徒言行録)なんですが、そう思って見てみるとやたらと周縁的な登場人物が多いんです。しかも、宣教活動自体は、見かけ上社会の中心(まずユダヤの都エルサレム、その次には世界の都ローマ)へと向かうんですが、内実は全然収斂しないっていうか、何でもありありなんですよ。教会相互は全然一貫性が無くて、しかもそれがあんまり問題になってないんです。まぁ問題になることもあるんですが、結果的に、それを反動にして、問題にしないことが正当化されるんですね。

そこで臆断で言わせていただくと(<−良いのか!)、キリスト教の発生物語としてのその歴史は、周縁が中心を呑み込んでいってるっていうか、周縁がさらにどんどん外側へ外側へと向かっていってしまって、中心の方を無視して向いていないというか、むしろ周縁がさらに外側に向かうために都合の良いように中心の論理を骨抜きにしてしまうんですよ。で、言うならばそれこそまさに、中心に対する周縁の抵抗なわけです。
そういう意味で、古代のキリスト教会のあり方に、既に脱中心の方法論があったのではないかなんて言えなくなくないかい?ということが、僕の目下の関心です。

・・・以上、長すぎる上に、かなり強引なコメントでした。

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2006.02.18

PKD型レプリカントが逃亡 - Engadget Japanese

リンク: PKD型レプリカントが逃亡 - Engadget Japanese.

作家フィリップ K. ディックをモデルに作られ、ディックの著作と伝記から構築されたAI人格を持つアンドロイド"Phil"が輸送中に失踪、製作元のHanson Robotics社では現在目撃情報を募集しています (注:本当のニュースです)。

Mixiというソーシャルネットワークサイトの、とある方の日記からこの記事を知りました。
全然ドイツ滞在記録とは関係ないのですが、あんまりおもしろかったのでつい紹介を・・・。

当然電気羊の夢をみるんでしょうね(笑)。

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