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2008.03.05

そろそろ

というわけで、およそ3年半に渡り、ドイツくんだりからくだらないネタを垂れ流してまいりましたが、諸般の事情により、このイースターをもって一旦日本に戻ることとなりました
4月からは、三鷹市の外れにある教会に牧師として赴任いたします。
これまでのご愛顧を感謝致しますとともに、今後も生温かく見守って頂けましたら幸いに存じます。

ちなみに当然(?)、論文は仕上がっていないわけで、2008年夏の完成を目指して今後も精進して参らなければなりません…。
どうか引き続きご支援ご指導いただけますようよろしくお願いいたします。

論文完成の暁までは、一応当ブログも細々と展開して参りたいと存じますので、お引き立ての程を宜しくお願い致します。

さて、でその論文ですが、当然今のうちにとりあえず書けるだけ書いておかないといけないわけで、煮詰まっちゃって焦げ付いちゃったのがもはや分子レベルで崩壊しつつあります。
一応オチとしては、こんな感じ。
はっきり言って自分でも何言ってるか分からないですが、煮詰まり具合をお察し頂けましたら幸いに存じます。



  1. Mary.L.Prattの提唱する»Contact Zone«という概念をルカ福音書の旅行記に適応して、福音書著者の視点が複数の社会的枠組(Social Framework)が重なる領域に位置していることを示す


  2. と同時に、B.J.Malinaがまとめている古代地中海世界の時間理解(CBQ 51-1,1989, 1-31)を、J.Assmann-K.E.Mueller, Der Ursprung der Geschichte,Stuttgart 2005で出てくる古代地中海の世界観とくっつけて説明
    1. 古代人の時間感覚=空間的に把握している要素大きく、時間とはむしろ社会的枠組みと捉えることができちゃったりなんかしちゃったりして
    2. ということは、旅行記=異なる「時」(=「社会的枠組み」)の境界を行ったり来たりすれ違いでどこからきたのかごくろうさんね、という感じで、かなり視点が錯綜
      1.  ー> 伝承プロセスの違いに由来するものももちろんあるが、むしろ、ある種わざと錯綜したまま遺してる、とか?


  3. その上で、ルカの旅行記におけるイエスの発言とたとえ話を、大貫隆、イエスという経験、岩波2003、同、イエスの時、岩波2006をつかってまとめる
    1. どうやらこの旅行記を書いている人自身が位置する「現在」が、社会的枠組みの山のあなたの空遠く幸ひ住むと人のいふ、という位置にある感じがする、ような気がする
    2. でも、旅行記だから、ここかと思えばまたまたあちらあー河原の石川五右衛門、そう簡単にはつかまえられません。
      1. だからついつい、文脈をロストしました!解析不能、釈義者は回答を保留しています!みたいになりがち?
      2. でもって捕まえたところで、つかみ所がないから、おい、どっちへ行くんだい、へぃ、それはウナギにきいてください、みたいな?
    3. ていうか、以下のような雰囲気を持つエピソードが、渾然一体となって一人の人格上に展開しているところが旅行記の醍醐味ではないかと。
      1. 風の向くまま気の向くまま明日は明日の風が吹く、けっこうけだらけねこはいだらけとくらぁ、おいこのタコ社長、いつまでもデカイ顔してられると思うなよ、みたいな放浪のカリスマティカー的雰囲気
      2. がははは、いやいやうまいねー、おーい山田君、全部もってちゃって、えーっなんでー、みたいな審判者的雰囲気(なのか、これは)
      3. ルカ特殊資料的な(ほんまか)、東ニ病気ノコドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ、南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ、ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、サウイフモノニ、ワタシハナリタイ的な(ってどんなんやねん)「小さくされた者」に対するシンパシー満載の雰囲気
    4. この辺に、わざと視点の錯綜を遺している原因があるのではなんて思ってみたり。
    5. 近代人が聖書読む時にはどうしても、「自我意識」というものが、世界を観察する際の一定不変の観察点であることを前提にしてしまうわけで、だから近代文学批判のお約束としては、たとえどういう人称を用いて記述していたとしても、登場人物と書き手と読み手(語り手と聴き手を含む)はそれぞれ別個のアイデンティティを持っていて、基本的に混じり合ったりしないことが大前提なわけです。が、少なくとも古代における「自我意識」は近代人のそれとは全く違うわけで、吾輩は人の子である。名前はまだ無い。みたいな感じかと。だから物語上の文脈を追う視点は、登場人物と書き手と読み手(語り手と聴き手)の間を行ったり来たりするわけで、旅行記で内容的にも視点が行ったり来たりするのに対応してしているかもしれない、なんてことを言っていいのだろうか。


  4. 隠し味に、J.D.G.Dunn, Jesus remembered, 2003とか、G.Theissen, (hrsg.v. G.Merz), Jesus als historische Gestalt,Goettingen 2003とかをところどこでひっぱってくる
    1. あなたのおもいでだーけーはーきえたりーしないー、というわけで、思い出の割に益々ご健勝でご発展のイエスのご様子が展開されている点を指摘。
    2. さーてどっかいこーかどこいこーかー!へこいてかえろかくそしてねよか、おいおまえひまやろ、あのおとこ見てみ、えーことしてるとおもわへん?おまえいってちょっとみてこいや、おうどうやった、そーやなー、イエスは当時の社会規範の内部にいるよーなー、いないよーな、いややっぱりどっちかいうたらいるよーなー、いないよーなー、ってどっちやねんな、なにはなくともekkle-siaは最高、他に比べりゃ外国同然!東・地中海世界・Strut!Keep on Movin!みたいな、どっちつかずゆえのノリノリ感を醸し出しているか?なんてね。
    3. ついでに言えば、どこにもいて、どこにもいない。だれでもあって、だれでもない。私はダ…みたいな感じで、不在による偏在という意図の臭いも若干しなくもないかもしれない。


  5. 結論としては、おおむねルカ旅行記においては、社会的少数者(=周縁化された存在)の視点においては神の国は現在時称的、社会規範の内部にいる存在の視点においては神の国は未来時称的、な感じで展開してるのではないかということを問題提起。
    1. 未来=社会規範の境界の外側であって、つまり周縁化された存在にとっての現在、というからくりでなんとかお茶を濁そうと。

というあたりで何とか勘弁してもらおうという、ムーンサルトプレス並のアクロバティックな荒技に挑戦という算段ですが、果たしてうまくいきますやら。請御加祷。

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コメント

おもしろかったぁ!

三鷹にいらっしゃるのですね!家族で会いに行きます!!!めっちゃウレシイ♪

投稿: まんぷく丸 | 2008.03.06 11:09

まんぷく丸さん、お久しぶりです。
コメントありがとうございました。

> おもしろかったぁ!

えぇ〜ほんとかなぁ〜
まぁそのうちもう少しまともなエントリも投稿できるように精進してまいりたいと思います。

三鷹にも是非お訪ね下さい。お待ちしております。うなぎさんとも久しぶりにおあいしたいですね〜。

投稿: LEE | 2008.03.06 21:11

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