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2007年11月

2007.11.07

「文化」vs「野生」

ひとつ前のエントリへのおいらさんのコメントより

>  もどって俺は、ここがちょっと面白くて、

> >その意味で、贖罪の理論は、「排除」を通して「昼」もしくは「公」・「秩序」の側を維持・延命する方法論に他なりません。

>  グレーゾーンから昼、公、秩序へ、という話だよねぇ。
>  じゃあさぁ、逆のなんか面白い話ってないのかなぁ?(笑)
>  グレーゾーンから「夜」「私」「混沌」の側を維持・延命する方法論(笑)。
>  まあ、あるんだろうけどね。
>  いや別に調べるのが面倒で言ってるんじゃないんだよ(笑)。君の学んだ知識の整理を手伝ってあげようとする親心なんだよ(*゜▽゜)ノ

いやいや、よーきいてくれました。まさにそこが問題なんですわ。

それがさぁ、「夜」「私」「混沌」の側って基本的にメンテナンスフリーなもんらしいのよ。
ていうか、実はこの「昼」と「夜」の対立構造は、いわば「文化・文明」と「自然・野生」って言ってもいいわけなんですよ。

で、自然(野生)そのものはどこまでいっても本来メンテナンスフリーっていうか、自律的っていうか、そもそも人間が考えるような意味での制御とか管理とかとは無縁なものなんですね。

山口昌男は「文化の詩学II」(岩波1983)の中で、J.クリステヴァの「中国の女たち」を取り上げて、クリステヴァのいう「象徴作用」ー「原記号作用」という表現を、むしろ「タナトス」ー「エロス」、「制度的なもの」ー「自生的なもの」、「固定化した記号」ー「発生期にある記号」と言い換えることができるだろう、と言っています。(山口昌男「文化の詩学II」岩波学術文庫2002(初出:岩波1983)pp.83-84)
そして、多分この対比構造は「文化・秩序」ー「野生・混沌」の関係についての言い換えであると言って構わないと思います。
つまり、混沌」と「創造のポテンシャル」っていうのは、ほとんど同語反復みたいなもんなわけですよ。
だから「夜」「私」「混沌」の側っていうのは、基本的に維持・延命のための何の方法論もいらないのです。

誤解を恐れずに敢えて言うと、宮崎駿の「もののけ姫」に出てくる、頭が無くなって暴走するデイダラボッチ(だったっけ?あのシシガミさまから夜になると変身する青いやつ)のイメージですよ。
「夜」「私」「混沌」っていうのは、神話的構造の根源的要素だから、寓話的な傾向が強い芸術作品に類似のモチーフを見つけ出すのはそんなに難しくないと思います。

もちろん人間社会には「自然保護」という概念もあるわけですが(他にも似たようなのに「環境保護」とかあるけど)、そこで言ってる「自然(環境)」って、よく考えると、実はあくまでも「自分達の文化の要素の一部分としての自然(環境)」でしかないんですよ。で、言ってみれば、それは「資源の供給場所」としての役割としての「自然(環境)」なんですわ。
というのも、結局、人間が自然・野生を保護しないといけないと考えるのは、自覚しているいないにかかわらず、実際問題として人間の文化・文明はそれに依存しないでは存在し得ないからなわけです。
その意味では、所詮「自然保護」というのも、結局は文明の資源供給を絶やさないための管理上の方法論であって、いかに文化・文明が、自然・野生の資源を、それが文明の内部を浸食しないようにしつつ、えーかんじでコントロールしつつ取り込むか、ということが一番の問題なんですな。

たとえば本来「自然保護」という目的を最大限実現させるための最善の方法は、文化・文明の活動が停止・崩壊することなわけじゃないですか。
でも、いくら自然保護が大事だからっていってもそれを言っちゃったら、そもそも「保護する」主体としての文化・文明がなくなっちゃうわけで、それじゃあ意味が無いというか、それは文化・文明の基礎としての人間の自己保存欲求に反してしまう。
だからいくら「自然保護」って言っても、自然・野生が主体になって猛威を奮いまくって、人間の文化・文明を蹂躙してもらったら困るわけで、あくまでも主体は「文化・文明」で、「自然・野生」は管理の客体の立場に留まってもらわないとまずいわけですよ。

で、そのための「グレーゾーン」なわけですよ。
つまり「夜」「私」「混沌」「自然」「野生」の側にとっては、別に「グレーゾーン」は要らないわけで、「グレーゾーン」が必要なのは、「昼」「公」「秩序」「文化」「文明」の方だけなんですよ。
敢えて言い換えると、自分たちの世界を昼と見るから、夜と昼の区別がいるだけなわけで、つまり区別が必要なのは、「昼」の側だけで、別に「夜」の側にとってはそもそも区別はどうでもいいんですよ。
つまり対立構造そのものが、夜の側には存在しないというか、全然必要無いんですよ。

ただ、物語とか文学とか演劇・音楽・絵画などなどの芸術の領域では、昼の側と夜の側の対立を、(もちろん本来語り手・作り手は昼の側にいるわけですが)あたかも夜の側の立場から昼の側を区別して見ているかのような表現をとることで、文学的緊張を高めると言う効果を生み出すことがあります。

この説話・物語に見る「文化=秩序」と「自然=反秩序」の対立構造っていうのは、山口昌男は「文化と両義性」(1975)、第1章「古風土記における「文化」と「自然」」の中で、主に「古風土記」について取り上げますが、対比的に記紀文学についても触れて、「日本書紀」の中の景行天皇四十年紀に日本武尊に蝦夷征討を命じる詔の中の記述を分析して、以下のように図式化しています。

Figur_yamaguchi1975_s13
この表では、パラダイム的対立に還元される対立項も想定した。このうち正の項が当然古代社会の秩序感覚の中で今日我々のいう「文化」の側に分類されるものであることはいうまでもない。負の項は「反秩序」「自然」の側に分類されるものであり、次のような、より抽象度の高い項のメタファー的表現である。
(I) 抑制の欠如(a-)
(II) 差異性の欠如 (b-・c-・f-)
(III) 交換、ルールの拒否 (e-・k-・l-・m-・n-・o-)
(IV) 反文化性=自然性(d-・g-・h-・i-・j-)
つまり差異性に基づく秩序の拒否が、土蜘蛛、夷に与えられた規定であるといえる。しかしながら、この一つ一つの項を検討してみると、そのほとんどは「荒ぶる神」に移行できるものであることは明らかである。そればかりでなく、征伐の主人公と荒ぶる神の司祭が、両者の仲介者として、対立項の双方の属性を兼ね備えていることを我々はすでに確かめてきた。たとえば日本武尊や素戔嗚尊はほとんどこの四つの属性を備えているといってよい。したがって我々は、説話および儀礼は、本質的に「仲介」的機能を持っていることを知る。
 ただここで注目すべきは、肯定的主人公の属する側の諸項の根源が、「差異性」の強調にあるとしたら、「荒ぶる神」もそうした分類的な思考の産物であるという点である。
(以上、山口昌男「文化と両義性」岩波学術文庫2000(初出:岩波1975)、pp.13-14.)

だから実は、そもそも「昼」と「夜」を区別するっていう発想そのものが、極めて「昼の側」に特有の発想なんです。
ていうか、そもそも「昼」と「夜」っていう区別自体が「昼」の側が勝手に「自分たちのいる側が昼だ」って言ってるだけで、そもそも夜の側では、そっちが「夜」だなんて、これっぽっちも思ってないっていうか、そんな区別が意味ないっていうか、だいたいが、そういう「区別」をつけられないから「夜」なんだから、あたりまえです。
そうすると、グレーゾーンが、グレーゾーンたり得、しかもその存在が不可欠になるのは、昼の側から見た場合だけなんですわ。
つまり、昼の側の立場から、夜の側の視点を借りて昼の側に接近させ、なおかつ夜を昼の下位に位置づける物語を作り出すことで、夜の側から昼の側に「資源」を供給できるパイプラインとしての「グレーゾーン」を作りだすわけです。

というわけで、僕の問題提起としては、「グレーゾーンから「夜」「私」「混沌」の側を維持・延命する方法論は?」というよりは、「「いわゆる夜」の側からグレーゾーンを通して「いわゆる昼」の側を見つつ、なおかつ「いわゆる夜」を「いわゆる昼」の下位に位置づけないでいられるとしたら、「いわゆる昼」の側はどんな風に見えるか。また、「いわゆる夜」の側はどういう自己理解を持ち得るか」という、何言ってんだか自分でもよくわかんないような、そういうことなんですわ。

一応、目下の落とし所としては、この「いわゆる昼」の側の、区別(=差異性)の基準となっているのは、たぶん「時間的秩序」、つまり原因と結果の関連を時間的な秩序の中で位置づけるということだろうと。
つまり夜が夜であるのは、また混沌が混沌であるのは、原因と結果の結びつきが一直線かつ一方向でなければならないという前提が無いからではないかということをJ,クリステヴァから引っ張ってきたいな、と思っています。
まぁそんな今更流行らないポストモダン的な感じの結論でお茶を濁そうかと。

もの凄く長くなって、しかもほとんど意味不明になってしまったのでとりあえず以上。
(この項続くかどうか不明)

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2007.11.04

閉塞感と不寛容の時代に

リンク: 「公私混同」原論 (「公私混同」原論):NBonline(日経ビジネス オンライン).

上記リンク先には、11/3現在で第2回までが掲載されています。

第1回「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる 」は見過ごしていたのですが、第2回のタイトル「ご機嫌な人を見ると、不機嫌になる社会」に惹かれてつい読んでしまいました。

社会格差に関する糸井氏の発言に対しては、?と思うところもありましたが、全般として上手いこと言い表してるな〜と思わされました。

特に、

糸井 じゃあ、規制が厳しくなって、結局誰の仕事が増えているか。というと「これは大丈夫です」「これはダメです」「これは耐震構造 的に法的にオーケーです」「オッケーじゃありません」といったことを調査して報告するひとたちですよね。それって結局、官僚の仕事であり、弁護士の仕事 じゃないですか。

—— まさに管理する人の仕事だけが増えたんですね。

糸井 そこで問題なのは、「仕事は増えているけれど、何も生んでいないし、消費されていない」ということなんですよ。

—— ええっ? どういうことですか?


■消費のアイデアが見つからない

糸井 つまり、見回りみたいな「管理」の仕事を増やしても、何も生み出さないし、誰も消費をしないじゃないですか。ただ、たしかにこうした官僚的な仕事、官僚的なコストを増やしていくと、ノーアイデアでいろいろ回るんです。

(連載第1回「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる2007年10月26日より)

また、

糸井 そうならないためには、まず「ルール」ってものをもう少し柔軟に考えるのがいいんじゃないかな。具体的には「ルール」をつけた り消したり、点滅させるって考え方が必要だと思うんです。それがぼくの言うところの「公私混同」のコンセプトなんですよ。ルールは、できるだけ腰を低くし て適用しましょう。場合によっては、ルールなし、消しちゃうときだってありですね、と。

—— そもそも「ルール」って、できるだけ多くの人がご機嫌でいられるための「最低限の決まり事」のはず、ですもんね。それがいつの間にか、ルールを破ったやつをこらしめるのが目的になっている……。

糸井 もちろんルールは大事なんですよ、絶対。けれども、ルールはあとからできたものですし、ある意味でバーチャルなものなんだか ら、現実に適用するときは濃くしたり薄くしたりしてもいいんじゃないでしょうか。「公」「私」の間は白と黒じゃなくて、グラデーションじゃないでしょう か。きっちりふたつに分けることなんかできない。

 というわけで、公私混同、なんです。

連載第2回ご機嫌な人を見ると、不機嫌になる社会、2007年11月2日より)


という指摘はとても興味深いと思いました。

「白黒つける」ということは、僕の田んぼに水を引き入れて言い換えるならば、「倫理の聖域の内側と外側とをきっちりわける」ということなわけですよ。

で、そういう振る舞いは、特にその社会集団がある種の閉塞感に囚われている時にはものすごく必要に思えたり魅力的に見えたりするわけですが、その実は何の生産性もないという例を、この記事は示しているように思いました。

もう一つ、下記のくだりもとても面白いと思いました。

—— ただ、今日のお話をおうかがいすると、一方で、ネガティブな意味での公私混同も出てきてますね。先ほど糸井さんが言っていたように「頼まれもしないのに、みんなが警察官になる」というのも、一種の公私混同ですよね。いや、私公混同か。


糸井 そう。不思議ですけれど「私」から「公」にいっちゃっう人々が、いま世の中にあふれているんですよ。


—— ほっておいたら「何も生まれないから、管理と見回りで消費を回す」ことになっていく。


糸井 「管理」がどんどん偉くなる時代に、どう機嫌良く生きていこうかなあ、というのがぼくのテーマです。

(連載第1回「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる、2007年10月26日より

ざくっと言えば、糸井氏は、「公」と「私」の領域が混同されるところには生産性・創造性を見ているわけですが、同時にその一方で、「私」から「公」へという方向性を持った混同に対しては、それを見出すことができない、と言うことだと思います。

で、この「私」から「公」へという方向性、みんなが「警察官」になりたがるような方向性、これってなんなんだろう?社会に閉塞感があるからそうなるの?それとも、そうなるから社会に閉塞感が増していくの?それとも、この二つがスパイラルに繰り返されて、どんどん傾向が強化されていくんだろうか、ということを考えさせられたのでした。

全くの手前味噌なんですが、こういう状況って、本当に人類の歴史の中では繰り返し出てくるわけですが、1世紀後半パレスチナにおけるイエスならびにそれに続くイエス運動って、まさにこういう閉塞感のスパイラルが進行する社会の中で、敢えてグレーゾーンに留まりつづけることでその創造性を発揮したと言えるんじゃないかと思うんですね。

「公」と「私」をどうやって分けるか、あるいはその判断基準は何か、ということは極めてその社会集団が属する文化的価値に依存するので、一概には言えません。ある文化にとっては「私」と見なされる事柄が、別の文化では「公」と判断されることはままあります(その逆もまた当然よくあります)。
しかし、「そういう二つの領域がある」というのは、概ねどの時代・どの文化にも当てはまると言ってよいと思われます。

そして、この「公」と「私」という二つの領域の境界は、本来デジタルなものではなく、アナログな変化としてのグレーゾーンになることは、前にも触れた山口昌男の「文化と両義性」(1975)や「文化の詩学II」(1983)でも取り上げられているわけで、言ってみれば、昼と夜の境界は、デジタルに言えば、日の出・日の入ですが、実際の生活においては、アナログ的に変化するグレーゾーン、すなわち薄暮・薄明の時が必ずそこにはあるわけですよ。
でも、このグレーゾーンというのが曲者で、一般にはこのグレーゾーンは「禁忌(タブー)」の領域とされていて、その領域に触れた場合、その後で「昼の側」に戻ってくるためには、特定の祭儀的手順を経なければならないとする文化がほとんどなのです。
たとえば身近な所では、「葬式から帰ったら塩を撒く」から始まって、「規定に違反したら処罰を受ける」とか「法を犯したら刑を受ける」とか、「みんなの前で謝罪する」とか、考えようによっては「トイレの後は手を洗う」とかも良い例です。

でも山口は、実は同時に、このいわば昼と夜(あるいは公と私、秩序と混沌)が混じり合うグレーゾーンとしての禁忌(タブー)の領域は、非常に創造的ポテンシャルの高い領域でもあることを、V.ターナー、E.リーチ、M.ダグラスといった文化人類学者の論考を中心に取り上げながら、繰り返し指摘しているんですね。

でもって、閉塞した状態を打破することの出来るイノヴェーションは、ほとんどと言って良いほど、このグレーゾーンから生まれてくる。というか、「昼」もしくは「公」、「秩序」の部分からは出てこないんですよ。
もちろん同時に、それは時として「昼」「公」「秩序」の側を破壊する危険性すらあるぐらいのポテンシャルを有しているわけで、だからこそ古来より「公」の側は、適当にえーかんじでそのポテンシャルをおいしいとこだけ取り入れるために、祭儀的手続きを課することでコントロールしようとしてきたわけですね。

だから逆に、そういうシステムがいつのまにか制度疲労を起こして、充分に機能しなくなってくると、グレーゾーンをこれまで以上に徹底的に管理しつくすことで、つまり徹底的にグレーゾーンに対して不寛容になることで、もういちど創造的ポテンシャルを獲得したいという欲求がふつふつとこみ上げてくるのではないかと思います。

ある社会集団において、倫理もしくは規定の境界が厳しく問われるということ、つまりの白と黒、昼と夜、あるいは公と私、秩序と混沌の境界線を、厳密に不寛容に規定し適用したいという強い欲求が生じるということ、それはその社会集団を囚えている閉塞感が日々増していることの現れと言えるのかも知れません。

古来より、そういう欲求を満たすために、ある特定の存在に禁忌の持つ負の側面すなわち「罪科」を全て負わせて集団から排除する、いわゆるスケープゴート(贖罪の山羊)というものが生み出されてきました。
その意味で、贖罪の理論は、「排除」を通して「昼」もしくは「公」・「秩序」の側を維持・延命する方法論に他なりません。
実のところ、贖罪というものを巡る行為は、その社会集団の不寛容・閉塞感と、密接かつ裏腹な関係を有しているのです。

人類の「贖罪」のために十字架において死せられたイエスは、しかし、その地上の歩みはまるで「公」とは縁のないものでした。むしろイエスの地上の歩みにおいて、もっとも「公」に近づいた瞬間こそが十字架刑に他ならなかったという、この矛盾。
そして週の初めの日の薄明の時に起こった、生と死の境界を曖昧にする「復活」という「混沌とした」出来事。

イエスの死は、またその復活は誰のためなのか。
あるいは遡って、その死に至るまでの地上の歩みは何だったのか。

いや〜むずかしーなー。勉強しよう。精進精進。

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