「排除の論理」としての倫理
昨今の日本の話題をネタに、以下煮詰まった研究の憂さを吐き出し。
ていうかこれじゃぁ小間物屋を開くみたいなもんですな…いやいや精進々々。
そういうわけで以下、小間物ご開陳。
先日、日本からのお土産に「週刊朝日」2007年10月26日号と「週刊新潮」2007年10月18日号をいただく。
日本にいる間、学生時代は「朝ジャー」、その後は「AERA」なんかは、そこそこ買うこともあったが、週刊朝日とか週刊新潮といったいわゆる「週刊誌」は病院や銀行のロビーで順番待ちの間に読むものでしかなかったので、自分がこんなに熱心に週刊誌を読むようになるとは思わなかった。
昨今ネット経由で情報そのものは簡単に入手出来ますが、「印刷物を読む」というのは、ネット経由での情報収集とはまた違った味わいがありますね。
要するにまぁえーおっさんになってきたということですな…。
で、その週刊朝日「巻頭」に昨今の相撲協会に対する「"土俵際" 大相撲は変われるのか」と題する「ご意見」寄稿があった。
週刊新潮にも、巻頭では無かったが2番目に「時津風『逮捕』と朝青龍『来日』どちらがひどいダメージか」と題する記事が載っていた。
それを見て、日本で今こういうことが話題になっているのか…と思いながら、中身を読んだ。
ちなみに、僕は大相撲は「そこそこ」好きな方で、日本にいるときも、中継を欠かさず見るということはないが、そこそこ話題にはするといったところでしょうか。
学生時代には一度国技館の枡席に連れて行ってもらったこともありました(座布団は投げなかったけど)。
まぁゴルフやテニスよりは、試合結果が気になる。
野球やサッカーやラグビーぐらいには、気になる。
でもiPhoneが日本で発売になるかどうかということよりは気にならない。
そんな程度です。
だからそんな、昨今の大相撲について一家言物すような気は全然ないし、そもそも正直なところ、僕はネット経由の情報しか、昨今の相撲協会については知らない。
相撲部屋で死者が出たということ、その原因に暴行とシゴキがあったらしい、ということは情報として知っている。
また、それ以前に横綱がモンゴルに帰郷したという話も、情報としては知っている。
しかし僕は日本で放映されている、ワイドショウも電車の中吊り広告もバラエティ番組もニュース番組も基本的に見ていない。(Podcastingされているニュースはいくつか見てるけど。)だからいわゆる日本の「世間の空気」との間に温度差がある(と思う)。
で、そういう目から見ると、週刊新潮の記事について何がそれほどニュースバリューがあるのか、さっぱりわからなかった。
週刊朝日の記事も特にその冒頭の「協会よ、守るべきものは断固守れ」と題された寄稿は何が言いたいのかさっぱりわからなかった。
というか、この方の「ご意見」の背後に潜む「倫理観」とも言うべきものに背筋が寒くなる思いがした。
以下にそのご意見の主要部分と言えるのではないかと思われる箇所を一部引用。
…何しろ、朝青龍の野卑で下品な行動の数々は、日本をなめ、日本人をなめ、国技をなめたとしてか考えられない以上、文科省も思うところがあったはずだ。
横審で、私は朝青龍への「引退勧告」を強硬に主張した。同意の意見も複数いたが、「総意」としては案の定「見守る」に落ちついた。このていたらく、これではなめられるわけだと、私は怒りを通り越して情けなかった。
おそらく文科省は、時津風邪部屋事件と二つを鑑みて、協会も横審も何ら機能していないと思ったのだろう。本来、お上の介入など言語道断だが、「国技」とされる大相撲であり、公益法人であり、あげく協会も横審も甘いとなれば、「指導」は致し方ない。
協会はこれらの事件に関する数多の意見を真摯に受け止めた上で、再発防止と自分たちが本来あるべき姿を霊性に考える必要がある。「伝統」という名のもと、理不尽なことが行われていなかったか。前時代的な暗部はなかったか。厳しい上下関係が、弱い者いじめや物を言えない環境に変質していなかった。すべてを洗い出し、何ゆえ「国技」として君臨していられるのかを、徹底的に検証する必要がある。その意味では、文科省が要望するように検討委員会に外部の「有識者」という方々を入れることに賛成だ。
ただし、まずは協会が独自に洗い出し、検証し、大相撲の、
「何を保守し、何を改革するか」
を揺るぎなく持ってから臨むべきである。「守るべきものは断固守る」という鉄の志は不可欠。」
私は殺人につながる体質や旧弊を残せと言っているのではない。大相撲を国技として恥ずかしくないものにするためには、何が「正の伝統」で何が「負の伝統」かを見極め、協会内のコンセンサスをとってから検討委員会に臨めということだ。
(「"土俵際" 大相撲は変われるのか」週刊朝日2007年10月26日号(第112巻第53号通巻4845号)朝日新聞社、pp.18-24より内舘牧子「協会よ、守るべきものは断固守れ」pp.19-20)
稽古中の力士の死亡については、原因の究明と再発防止のための対策が必要であることは、もちろん言うまでもない。
しかしこの寄稿で問題となっているのは、もうちょっと違うことのような気がする。
むしろ、そこでは「国技としての伝統」とか「国技として恥ずかしくない」こととかがより重要な事柄として取り上げられているような気がする。
そして、この人が考える「伝統」とか「誇り」と言うものは、ただとにかくそれは「なめられたり」してはならないもの、僕なりに言い換えると、侵犯されてはならない、守るべき倫理としてここでは扱われているということは読んでわかった。
だから、それらを侵犯しようとするものに対しては、ある種の(潔癖症とも言えるほどの)激烈さをもって排除するべきだということのようである。
でも、その「伝統」とか「誇り」というものの中身が何なのかが僕にはよくわからない。
とりあえずこの方が相撲が大変好きなのは理解出来た。
そのことは理解できたのだが、それにしても、この方はまるで、自分は倫理と伝統と規範の内側、いわば清浄な安全地帯にいて、その聖性を侵すモノに対して、それを断罪する権威を与える正義の鉄槌だか剣だかをその手中に収めているような印象をうけるのだが、それがどういう根拠というかどういう立場でそういうことが言いうるのかがどうしても理解出来ない。
横審の委員というのはそういうものなのか?とも思ったが、僕のような毛色の違う人間にはどうしても、それは一委員としての見解とか言うことを超えて、「伝統とは、誇りとは、かくあるものだ」ということを絶対的に裁定しうる立場に立っておられるかのごとく見えてしまう。
それぐらい権威的な印象を受けるのだが、そうである一方で、その「伝統」とか「誇り」の中身と根拠は一向によくわからない。
いや、僕が分からないだけで、分かる人にとては、そんなことは言わなくても分かることなのかも知れない。
ひょっとすると、それはいわゆる「世間の常識」というものなのかもしれない。
多分この方はそういう「世間の常識」を前提として物しておられるのでしょう。
この「世間の常識」というものに考えが至るにあたって、僕は何だか、陰鬱な思いに囚われてしまった。
そして北朝鮮バッシングとか、中国産食品騒動とかを連想してしまった(といっても、それもネット経由の情報収集でしかないのだけど)。
そこには、いわば次のような感じのリアクションが共通しているように思われてしまったからだ。
- とにかく自分(達)の清浄な聖域に穢れたものが混ざり込むことが許せない。
- 自分(達)の清浄なる伝統、清浄なる信念、清浄なる秩序によって支配された清浄なる生活空間、清浄なる親族、清浄なる仲間、清浄なる思い出が、汚穢なるものによって、侮蔑され、貶められ、穢れることが許せない。
- とにかく、自分(達)が正しいと考える秩序と倫理にそぐわないものが、自分(達)の生活空間に入り込んでいることが、我慢出来ない。
- それはまるで、ばい菌かウイルスの侵入のように、「健康な」自分(達)を蝕んでいるように思われる。
- それはつまり、自分(達)とその聖なる生活世界の調子がベストな状態でない(というか悪い)のも、理想的な結果が得られないのも、充分な評価が得られないのも、理由無く苦しい思いをしなければならないのも、言われ無き非難を受けるのも、すべてこの汚穢が清浄なる生活世界を浸食しているせいのように思われる。
- でもその聖域が本当に清浄であるのか、汚穢と思ってるものは本当に穢れているのか、その根拠は何なのか、そういうったことは全然明らかでない。
- そもそもなんで自分(達)は「清浄なる側」だと言えるのか、ということも明らかでない、というか同語反復みたいなもんで、自分(達)がいる方が「清浄」であることを信じて疑わないというか、そうでないと困るからそういうことにしている。
- 実際のところ、自分(達)が清浄であることの明確な根拠なんて見い出せないわけだが、それを認めると不安定感が増し「清浄である私(達)」という自己同一性を保てなくなる危険があるため、とにかく何かを「穢れ」として攻撃・排除することによって、自分(達)の清浄さを補完しようとする。
- つまり実は、「穢れているから排除する」のではなくて、「何かを穢れたものとして排除することによって、私(達)という存在を保持している」。
…って、これは、いわゆる強迫神経症の症状に良く似ているわけですが、まぁ実際の所、強弱こそあれ誰でも似たような傾向はあるでしょう。
それが「時として攻撃性を伴う清浄さへの『過度の』欲求」として個人に発現するとそういうのはいわゆる「心の病気」と見なされることとなる(と思う。素人の理解だけど)。
そしてさらに、これは個人の場合だけでは無くて、同じことは社会集団の場合も言えると思う。
社会集団における場合はいわゆる「世間の空気」とか「世間の常識」として、そうした清浄さへの欲求は定着し・蓄積されていくことになる(と思う)。
もちろん、どんな社会・文化でも、大なり小なり似たような「清浄ー汚穢」の対立概念と排除構造を有しているわけで、その意味では、社会の自己同一性を維持する機能として、まぁほどほどに働いている分には、無下に否定したりは出来ない。
実際には、通常、社会集団の場合は自然に平衡機能が働いて、欲求が「過度に」増大しないように揺れ戻しが起こるのが普通だろう。
でも、そうならない場合もある。
そもそも社会不安が大きい場合、平衡機能は働かず、「攻撃性を伴う清浄さへの『過度の』欲求」すなわち排外主義的全体主義は一気に加速する。
言わずと知れたナチズムはその典型であろう。
ナチズム下のドイツ社会は、自分たちが清浄であることを揺るぎないものとするため、自分(達)が「非倫理的」と見なした存在を攻撃・排除・抹殺しようとした。
すなわちそこでの彼らの自己理解は、攻撃・排除・抹殺はあくまでも倫理を守るための戦いであった。
しかし、それが明らかに極端な行き過ぎであり、別の視点における倫理基準を著しく侵犯していると感じるのは、私だけではないだろう。
もちろんナチズムに限らず、これに類する事象は、広く古今東西において目にすることが出来るだろう。大東亜共栄圏だって似たようなものだと言えるのではないのか。状況はかならずしも同じとは言えないが、アメリカの主導する『対テロ戦争』もなんか似たような臭いがする。
山口昌男は、汚染する侵犯者としての「弱者・少数者」が個人と社会集団のアイデンティティの確立のために負っている役割について、心理学者ストーを引用しつつ、次のように指摘する。
…過去の恥辱とは、個人のアイデンティティを脅かす外在的脅威のようなものである。個人は、こうした脅威と自らのアイデンティティの関係を明確にしなければならない。アイデンティティの確立のために脅威は必要であるが、脅威そのものは視角的に外在化させなければならない。弱者はこの場合、格好の餌になる。こうした現象をストーは<妄想的投射>と呼び、次のような説明を加える。
妄想的的投射の受容者となり、敵意と軽蔑の念をもって取り扱われる小集団を、多くの文化が保ち続けるということ、そしてたぶんそれらを必要とするということもまた明らかなことである。インドの不可触民…は、汚れて汚染の危険ありと考えられた人間集団の例である(アンソニー・ストー著、高橋哲郎訳『人間の攻撃心』晶文社1973年147頁)
ここで問題になっているのは、弱者・少数者が必ずしも文字通りの弱者と考えられない点である。ストーは「いけにえとなる少数者が現実には弱いのに、潜在的に強力だとみなされる矛盾」を<不寛容>ということばによって説明している。たしかに、そうした側面は否定できない。だが、同時に「弱者」は多くの場合、潜在的挑発性を、本人が意識するとしないとにかかわらず備えている。<不寛容>による攻撃とは、そうした挑発性に対する痙攣にも似た反応であると言える。ただしストーは、少し後に「贖罪の山羊(スケープゴート)は強さと弱さを同時に体現している。われわれは第一の属性を彼らに投射し、第二の特質に同一化する。勝利者と敗北者はこのようにして他の動物にみられる、支配をめぐる攻撃闘争の程度をはるかに越えた、相互憎悪の紐帯によって結びつけられるようになる」と述べている。
「強さ」というのは、「挑発力」に裏打ちされた他者の像(負の理想像)なのである。この「挑発」する力とは、宗教学が<ヌーメン>ということばを使って説明してきたものにほかならない。(以上、山口昌男「文化の詩学II」岩波現代文庫、2002年、「スケープゴートの詩学へ」、pp.57-58。但しストーからの引用箇所の引用元情報については補足した。)
通常、ある日常的な生活世界の中では、その世界が有する「倫理」というのは揺るぎない根拠を持つ、盤石たる存在であるように思われる。
しかし実はそれは極めて脆いものでしかなく、その保持のためには、常に排除の論理を駆使し続けなければならない。
そして、排除は時として暴力を伴う。
バーガー/ラックマンは、その主要な概念である象徴的宇宙についての説明の中で、日常的な生活世界が排除の論理によって成り立っていることについて次のように指摘している。
象徴的宇宙は、生育歴的経験の主観的理解に対して秩序を供給する。異なる現実の諸領域に属する諸経験は、同一の、すべてを包含する意味の宇宙における組織合同によって、統合されている。例えば、象徴的宇宙は夢の意味内容(significance)を日常生活の現実の内部において決定し、その結果、それぞれの事例において、後者[=日常生活の現実]の卓越した地位を再確立し、ある現実から別の現実への移行に伴うショックを和らげる。そうでもなければ日常生活の現実の内部の飛び地領土を理解不能なままにしたであろう意味の領域が、それゆえに、現実のヒエラルキーの見地から秩序付けられ、そのこと自体によって、理解可能なものとなり、恐るべきものではなくなる。卓越した日常生活の現実の内部における、この周縁的状況の現実の統合は極めて重要である。なぜならば、これらの状況は、社会において当然のものと考えられ慣例化された存在に対する深刻な脅威を構成するからである。もし誰かが後者を人間生活の「日の当たる側」と見なすならば、周縁的状況は、日常の意識の周縁に不吉に潜み続ける「夜の側」を構成している。ただ、「夜の側」が、しばしば邪悪な類に十分な、それ自身の現実を有するので、それは、社会において当然のものと考えられた、実際のところの、「健全な」現実に対する恒常的な脅威なのである。以下のような思考(飛び抜けて「不健全な」思考)が心に浮かび続ける。おそらく、日常生活の明るい現実はただの幻想であり、あらゆる瞬間にでも、他者すなわち夜の側の現実のたけり狂う悪夢によって飲み込まれてしまうべきものである、という思考である。そのような狂気と恐怖の思考は、日常生活の現実を取り囲んでいる同じ象徴的宇宙の内部において全て想像可能な現実を秩序付けることによって抑制される。すなわち、後者[想像可能な現実]の現実が、その卓越した、決定的な(もし誰かが望むならば、その最も現実的な)質を保持するところのそうしたやり方によって、それらを秩序付ける。
(BERGER, Peter L. – LUCKMANN, Thomas, The Social Construction of Reality: A Treatise in the Sociology of Knowledge, Middlesex 1967; urspr. ersch. Graden City (N.Y.) 1966; Neudr. als Penguin University Books Middlesex 1971, 115-116. 翻訳は引用者による。)
身体訓練と精神的成長を並行して促すことと、精神論で暴力を正当化することは全く違うことなのだから、稽古の名の下で暴行が行われることは言語同断である。
ましてや死者が出るのは大問題だから、事件なのか事故なのか、調査と原因究明が必要なのはもちろん当然である。
が、個人的にはそんなのとっくの昔に問題になっとうだろうに何を今更、と思わないでもない。
そもそも、かつて日本では「皇軍」「臣民」として恥ずかしくないものを作り上げるという「倫理」に基づく訓練・教練が実施されるようになって以来、「規律と伝統を守る」という精神論で暴力(威力)は正当化されてきたのではなかったのか。
戦後となってからすらも形を変えて、あらゆるところに、そうした「倫理」と「伝統」と「規律」の名の下に、暴力(威力)の正当化が身を潜めてきていたのではなかったのか…。
人が倫理を標榜するとき、それはいとも簡単に攻撃と排除を正当化し、そのための暴力(威力)を必要とみなす根拠となる。
自分(達)は、清浄なる聖域を有しているのだから、それを汚穢をもって侵犯するものに対して、倫理に従って訴え、裁き、暴力(威力)をもって排除することが赦されているという言説は、稽古の名の下の暴行を精神論で正当化することと何ら変わらない。
SNSでの知人の日記で下記の記事を知った。
これも治安維持の倫理のゆえに正当化される暴力(威力)だというのだろうか。
「「取り押さえ急死なぜ?」授産施設協が県警に質問状」10/20佐賀新聞
ところで…
ここで話はいささか飛躍するのだが、僕の研究対象のルカの旅行記をあらためて「世間の常識」を持って読み返すと、イエスはおよそ一貫して「非倫理的」もしくは「非論理的」である。
え〜それじゃ割にあわないよ〜、とか(例:15章の失われたもののたとえのシリーズなど)、それってどうよ?てな感じの話(例:16章「不正な管理人」のたとえ、など)、世間一般の基準に反することばっかりである。
すくなくともここで描かれているイエス像は、おそらく当時においてすら生活世界の聖域を侵犯しまくりであると思われる。
おそらく、イエスとその運動の担い手らは、当時も「世間」からは、倫理に悖ると訴えられ、共同体からは排除され、同業者(洗礼者ヨハネ)からすらも「?」てな目で見られたりしたのであろう。
おそらくしかし、そのイエスが、そしてその運動の担い手達が示したもの、それは倫理も聖域も、そんなもんが価値を持ち得ない領域、世間を形成する尺度が無効になってしまうような領域、すなわち「神の国」であったのではないのか。
おそらく、結果的にその主張内容が、世間から、つまり既存の倫理と聖域を有する側から、自分たちとは相容れないと見なされたものの、イエスとその運動の担い手達は決して直接的・積極的に既存の倫理を否定しようとする意図ははなかったのではないか。
おそらく、その神の国についての使信は世間には受け容れられなかったが、世間からは排除されたもの、世間から孤立させられていたものたちによって受け容れられたのではないか。
おそらく、彼らの示した神の国とは、倫理とそれによって守られた聖域からは見ることが出来ないものなのではないか。
おそらく、聖域をその中心に有しているところの世間からは、非倫理的と罵られ、交わりから閉め出されたものたちだけが、それを見ることが出来るのではないか。
おそらく、それは歴史によって記述することが出来ないもの、つまり歴史の舞台を照らすスポットライトが決して届き得ないところにしか存在し得ないもの、いわば歴史の影、歴史の陰画(ネガ)、いわゆる反・歴史として以外には示すことが出来でなのではないか。
しかしおそらく、第三福音書の著者は、歴史を用いることなくそれを伝えることは不可能であることを熟知しており、またそうである以上、結局の所やはり歴史を媒体として間接的にそれについて語ろうとしたのではないか。つまり舞台の上立つイエスにスポットライトを当てて物語を語りつつも、その舞台上のイエスが指さす先は、むしろそのスポットが決して照らすことのない場所であること、つまり固唾を呑んでその舞台を見つめている者たち、つまり世間から穢れたもの、非倫理的な存在として閉め出された者達の中であること、そしてそうした人々の間こそが、イエス自身の場所であり、イエスが神の国を示した場所であることを示したのではないか。
そしておそらく、たとえ間接的にであれそこで示される反・歴史の属する「時」は、「無時間的な時」なのではないか。それは、既存の権威によって秩序付けられた時間、すなわち倫理によって枠付けされ意味を与えられる時間の中には留まることができないのではないか。むしろこの「無時間的な時」は、倫理の枠付けを無効化し、秩序を与える既存の権威を根底から揺るがすものなのではないか。それでいて同時に、この「無時間的な時」というのは希望と歓喜の源泉、創造的ポテンシャルに充ち満ちたものなのではないか。いわば無時間的な時とは、汚穢の実体であると同時に、聖性の根源なのではないのか。
だからおそらく、ルカにおいては、イエスとその運動の担い手達が伝えた神の国と、原始教会にとってのイエスのパルーシア(臨在)とが、この無時間的な時のうちに反・歴史として描かれているのではないか。しかも、無時間的な時において、反・歴史として捉えられている以上、神の国とイエスのパルーシアとの時系列的・論理的な関係(これらの関係は時として「倫理的」として捉えられることすらある)はあまり重要ではなかったのではないか。むしろ共時的・範列的関係(これらの関係は時として「祝祭的」として捉えられる)の方が決定的だったのではないか…
…とまぁ、この「おそらく」群(特に最後の項目)というのが一応、目指している結論なんですが、妻からは「んーおもしろいけど、一歩間違うと妄想と紙一重?」と言われてしまいました。がーん。
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